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公益社団法人 日本フィランソロピー協会

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社員と企業の協働寄付活動

社員と企業の寄付活動〜助成

個人の寄付活動

個人の寄付活動[一般部門]

 『まちかどのフィランソロピスト』受賞者

 一般部門

堀尾 静さん 中村 美律子さん 伊藤 州一さん
永瀬 隆さん 栗崎 みさをさん 西脇 麻耶さん
高岡 正明さん 照海さん 猪鼻 福松さん 伊倉 二郎さん
馬渕 隆一さん

個人の寄付活動[青少年部門]

 青少年部門

沖縄市立宮里中学校 高知県須崎市立須崎中学校
愛知県高校生フェスティバル実行委員会

個人の寄付活動[一般部門]

 堀尾 静さん

「ビール一本を我慢して、その分を募金箱に」愛知県のある居酒屋で呼びかけられた寄付は半年後、約6万円の寄付金と、 トランクいっぱいの鉛筆やノートになった。寄付の発起人は医師の堀尾静さん(62)。

きっかけは、居酒屋でネパール人から聞いた現地の話だった。公立学校では、学費が払えない子どもが多く、教師の給与に困っている。

また、文房具や机が不足しているのだという。居酒屋の常連客らで「ネパール募金」を開始した。
寄付先の学校が決まり、ネパールの古都パタンを訪れると、7歳から17歳までの全生徒480人が、野花を手にして出迎えてくれたという。短くなった鉛筆でさえも喜ばれた。

お礼を言う子どもたちの顔が忘れられず、続けるつもりのなかった寄付が、次回は井戸や電気の支援を目指すことになった。 堀尾さんからネパールの子どもたちの反応を聞き、2回目以降、さらに寄付に参加する人は増えた。

ビール代やお釣りが寄付金に変わり、ネパールの子ども達に笑顔をもたらした。その笑顔は堀尾さんの心をつかみ、ネパールとの長い付き合いが始まるきっかけになった。
個人の寄付活動
個人の寄付活動

個人の寄付活動[一般部門]

 中村 美律子さん(大阪府東大阪市ご在住)

中村美律子さんは「NHK紅白歌合戦」に11回の出場を果たす演歌歌手。1993年、地元の東大阪市でチャリティコンサートを開催し、ファンが比較的高齢であることもあり、 「高齢者福祉のために」と東大阪市を通じて東大阪市社会福祉協議会へ300万円の寄付を行なった。

その後、寄付活動を長く続けていくためには何らかの形に残るものをと考えていた矢先、1993年に発表した盲目の夫を支える夫婦愛を歌った「壷坂情話」がきっかけとなり、 盲導犬育成支援を考えた。盲導犬一頭の育成費用が約300万円と聞き、コンサートの純益、つましい暮らしの中から差し出されたファンのご祝儀、講演会場に設置した募金箱に寄せられた募金の収益などを 盲導犬育成基金として積み立て、寄付を開始。自分の心とファンの心がひとつに結ばれ、その寄付で育てられた盲導犬「ミツコ号」は計22頭、6600万円にのぼる。

好きなことを仕事にできる幸せ、それを支えてくれるファンへの感謝の思い。若き日の苦労が人の痛みをわかる心を培い、寄付という形で結実している。

個人の寄付活動[一般部門]

 伊藤 州一さん(神奈川県藤沢市ご在住)

伊藤州一さんは大学卒業後、衆議院議員塩谷一夫氏の秘書として働いた。塩谷議員は中国との友好運動に熱心で、伊藤さんも1975年には日中友好国会議員秘書訪中団団長として初訪中するなど、 国交回復へ向け奔走した。秘書を辞めた後も、「60歳の手習い」と北京郵電大学、大連鉄道学院に留学するなど中国との付き合いは続いた。

伊藤さんには「中国に小学校を建てて、子どもたちと遊びたい」という夢があった。それを聞いた友人から紹介されたのが長春市双陽区太平鎮にある小河小学校。校舎が老朽化し、倒壊寸前にも関わらず改築できないという。 伊藤さんは「東北三省は戦争の際、最も被害を受け、しかも多くの日本人残留孤児がお世話になった地域。恩返しがしたい」と300万円の寄付を決めた。

伊藤さんにとって、中国の原点は東北部の開拓団。小学校の時の用務員のおばさんから聞いた「引きあげ時、死んだ背中の子どもを道端に捨ててきた」という話が強烈に心に焼きついている。 また、NHKラジオの「尋ね人の時間」を聞くと、ほとんどが東北部開拓団の人が探す当時の近所の人の消息。共に開拓した者同士に日本人も中国人もない。東北三省にこだわる理由はそこにある。

新校舎の名前は「至誠小学校」。「至誠」は、2000年にオートバイ事故で、28歳で亡くなった次男の名前。2005年にはハルピン市の小学校にも寄付。活動を知った仲間と共に現在も寄付を続けている。 至誠小学校の子どもたちは、伊藤さんのことを「ラオラオ−おじいちゃん」と言って慕ってくれる。実の孫がいない伊藤さんに、たくさんの孫ができた。「至誠さんの子どもたち」でもある。

戦争で残酷な傷を受けた人をたくさん見てきた。しかし人間同士としての共感と生きざまを開拓団の人に見た。それを子どもたちの素直な心にまっすぐに伝えたい。 率直に行動する伊藤さんの寄付は、国を超えた人間としての誠意と愛情を体現するものである。

個人の寄付活動[一般部門]

 永瀬 隆さん

永瀬隆氏は、第二次世界大戦で陸軍通訳(職名)を志願し、捕虜の思想動向などの情報収集、防諜任務に当たり、敗戦。 タイ国政府は、敗戦国日本に帰る兵士が満足な食料も口にすることが出来ないだろうと、13万人の兵士各人に、飯盒一杯の米と当時の貴重品であった砂糖を寄贈してくれた。 このご恩は決して忘れてはならぬ、いつか必ず恩返しをしたい、と心に誓った。この、タイ国政府の温情が、永瀬氏のその後のフィランソロピー人生を決定づけるものとなった。

帰国後、岡山県倉敷市で青山英語学院を経営した。生徒数500名を超え、経営も安定してきた1968年、連合軍兵士の眠るカンチャナブリを訪れ、連合軍基地の十字架に深く頭を垂れた。 その後20年間、約30名の留学生の世話を続け、1986年、連合軍兵士の為、クワイ河平和寺院を建立、12月には、貧しい家庭や少数民族の子どもたちへの援助活動を安定的に継続する為、 クワイ河平和基金を設立し、小・中・高・看護学生に奨学金の授与を続けている。また、1997年より、クワイ河医療診断所を設立、カンチャナブリ県の過疎地域で巡回診療事業を実施。 2000年には、高価な眼鏡が買えない同県の人々に、岡山・香川県内の企業や市民の協力で眼鏡を集め、視力測定、検診も行ないながら、2500名に寄贈した。 この時、立派な看護婦になった奨学生がボランティアとして手伝いに来てくれ、永瀬氏を感激させた。

2007年6月には、日本兵の為に念仏堂「クンユワム星露院」を建立。同時に老人ホームも建設・寄贈した。永瀬氏のフィランソロピー総額は、35年で約7千万に達する。 永瀬氏のフィランソロピー活動は、まさに敵・味方を超え、人種を超えて深い人間愛(フィル・アントロポス)からわき出た発露であり、 今世紀最後の年、新しい世紀を迎えるにあたり、普遍的な人間愛のあり方を私たち一人ひとりに示した。

個人の寄付活動[一般部門]

 栗崎 みさをさん

栗山みさをさんは、東京女子大学を卒業後、ガリオア留学生として一年間アメリカに留学。 帰国後すぐに結婚し、世界銀行勤務のご主人に伴い、1960年より10年間、アメリカ・ワシントンD.Cで、その後2年間、バングラディッシュの首都ダッカで暮らす。 帰国後、スーパーで子どもをおんぶして買い物をしている主婦を見かけたことで、外国では見慣れないその姿に、地域の女性のために何か役に立ちたいと、 「母親英語教室」への参加を、区報を通して呼びかけた。その呼びかけに、栗山さんの自宅の電話は鳴りっぱなし。特に、戦時中、アルファベットも覚える余裕がなかった世代の母親たちが、 学ぶことを渇望している様が手に取るようにわかったという。こうして1957年、「マロン英語サークル」が始まった。 ボランティアで始めたことなので、最初の7年間は無償で教えていたが、生徒からの強い要望で、8年目から月会費を1,000円、その翌年から2,000円を受け取るようになる。 そして、その会費は全額、その時々の要望に合わせて複数の団体に寄付し続け、26年目の今日、その額は1,700万円にのぼる。

栗山さんをこうした活動に駆り立てた原点には、ガリオア留学生として渡米したことがある。本来は、留学で得たものを、帰国後日本のために役立てる約束になっており、 留学生に選ばれた人たちは、学者や役人などが多かったので、学生の自分にチャンスを与えられた幸運に感謝していたものの、帰国後すぐに結婚してしまい、 それを果たせずにいたことが、知らず知らずのうちに心のしこりになっていたようだ。また、バングラディッシュ滞在中に、大規模の台風があった際、 現地邦人は「日本人会」として寄付をしただけだったのだが、西欧人たちは、自分の子どもを背負いながら、率先して怪我人の救助や救援物資を運んでおり、 その姿を目の当たりにしたことが、ボランティアに対する意識・姿勢に大きく影響したという。

戦後のガリオア留学生の中に植えられた感謝の心が、その聡明さと謙虚さで周りの心を動かし、地域に温かいつながりをもたらすことで、 共生の精神として新しい時代に受け継がれている。国際性とは、地域での暮らしの中で生かされて初めて真に根づくものであることを、栗山さんは示してくれた。

個人の寄付活動[一般部門]

 西脇 麻耶さん

西脇麻耶さんの最愛の夫・西脇和昭氏は、米国会計事務所アンダーセンのパートナーとして働き盛りの48歳の時、肺がんに侵され、麻耶さんの一年半に及ぶ献身的な看護もむなしく亡くなった。 和昭さんは、老後の生活のために不動産をいくつか取得しており、さらに生命保険がおりて遺産は莫大な金額になった。それを手にした麻耶さんは、「こんなにたくさんのお金があっても無駄。 せいぜい老後に慎ましく暮らしていけるだけのお金があればいい、何かの役にたてたい」という思いを持ったという。こうした思い出を手繰るうちに、麻耶さんは、税理士に老後までの生活費を試算してもらい、 残りすべて養護施設を出た子どもたちの修学のために寄附をすることを決意した。

そして、昭和61年、東京都社会福祉協議会の中に「西脇基金」を設立し、その利子で、一人につき奨学金を月3万円支給することにした。 しかしながら、その後、基金の利子はどんどん落ち込み、存続が危ぶまれたが、平成9年、西脇さんの活動を知った米国のアンダーセンから、4575万円の寄附があり何とか凌いだ。 しかし、それでも基金は不足し、西脇さんは鎌倉にあった不動産も売却し、さらに毎年200万円ずつ寄付をし続け、平成14年5月には寄付総額2億4277万円に及んでいる。が、平成14年度の給付児童は74人、 助成を継続するにはあと2500万円が必要である。そうした窮状を知った東京都社会福祉協議会の監査を担当している税理士宮内真木子さんが、何とか応援したい、と5年前に「西脇基金を支える会」を設立、 毎年チャリティイベントを開催して資金を集めている。

今、共に人生を歩む夫婦の絆、子を持つ親のまっすぐな愛、そこから広がる人間としての共感が忘れられている。 素直な心に立ちかえった時、自ずと寄付の心が沸いてくることを西脇さんは示してくれた。

個人の寄付活動[一般部門]

 高岡 正明さん・高岡照海さん

第二次世界大戦中、青年学校の教師をしていた高岡正明さん(平成十三年没、享年九十二歳)は、「必ず戦争には勝って、必ずこの桜の木の下に帰ってこいよ」と言って、多数の教え子を戦地へ送り出した。 しかしながら、その多くは戦死し桜の木の下に帰ってくることはなかった。悔やみつづけた高岡さんは、彼らを供養・追悼するために、平和のシンボルとしての桜の植樹に精魂を傾けた。 品種改良に明け暮れ、寒暖に強い品種「陽光」の開発に成功。国内外を問わず、要請があればいつでも無料で植樹をした。

 桜ばかりに取り組む姿に、家族は「桜では飯は食えない」と折に触れ責めていたが、ある時、正明さんが「戦争で死んでいった教え子のことを思うと、桜を通して懺悔するより方法がない、どうか続けさせてくれ」 と泣きながら訴えたのを機に、それまで父に対して批判的であった照海さん(六十一歳)も、父・正明さんの心を受け継いで、今日まで五万本以上の植樹を続けている。

「陽光」は、品種改良の末、零下40度のウクライナでも花をつけ、これまでバチカン市国、アメリカ、韓国、中国、リトアニアなどへ「平和の祈り」の象徴として贈られている。

親子の絆の崩壊、家庭教育の荒廃が叫ばれる昨今、生き様を通して、人間としての痛み・共感・使命を、子に伝えた高岡正明さんの魂の教育。葛藤の末、そのバトンを受けとめ、 走り続ける照海さんの、親を思う情と平和を希求する意志は、日本人が失いかけている父性の尊厳を思い起こさせるものとしても意義深い。人の心に、花を咲かせ続ける親子の活動である。

個人の寄付活動[一般部門]

 猪鼻 福松さん

日中戦争が始まり、縁あって、警視庁巡査として、東京南千住警察署に配属。「笑顔のおまわりさん」と親しまれ、町内の人々から信頼される巡査として、長い警察官生活の第一歩を歩み始めた。 昭和15年、衛生兵として入隊。中国戦線を転戦、中国出港前日、母の死の知らせを受けた。輸送船で南方へ移動中、その船は撃沈されたが、母なき人生への執着は失せ、 同僚を生かすために働いたことで逆に命が救われた、という奇跡的な運命をたどる。ラバウル、マニラで治療を受け、赤十字の電飾を施した病院船で、無事帰国することができた。

その後、腰椎骨折の傷病兵ながら警視庁に復職し、職務に誇りと使命を賭けて文字通り粉骨砕身従事し、「特別優良警察官」「警察功労賞」など数々の賞を受賞、昭和47年、通算34年間、 南千住警察署の一警察官としての勤務を終え、定年退職を迎えた。病弱で義務教育も満足に受けられなかったにもかかわらず、限られた可能性を精一杯生かし、真摯に実直に、 そして謙虚に生きることで「災い転じて福となす」人生を送り、今日を迎えている。

あきらめていた結婚も叶い、よき伴侶と子どもにも恵まれたが、いつまで生きられるかわからない、という思いはいつもつきまとい、万が一の時に備え、こつこつ貯めた貯金を元手に株を始めていた。 その才覚も大で、大きな財をなすことになる。しかしながら、長寿・幸運すべてにおいて母の深い愛と真摯な祈りが自分を救い、お百度参りをした故郷の稲荷神社の加護のおかげだという思いを持ち続け、 自らはつましい暮らしぶりで、以前より心に誓っていた通り、80歳の時、稲荷神社の新築工事の建設費総額を奉納した。また、故郷の子どもの遊び場、恩人でもある赤十字へも寄付し、 その総額は1億円にのぼる。

個人の寄付活動[一般部門]

 伊倉 二郎さん

伊倉二郎さんは、一九二六年、静岡県御殿場市に生まれる。 生家は小作農家、十二人兄弟で貧しい暮らしだった。姉たちが奉公に出ているのを見て、自らも早く働いて家計を助けたい、と十四歳で鉄道省に入省。 採用試験時、解答用紙が白紙であること見た隣の席の秀才学生(隣村出身)が、答を記入してくれたおかげで採用となるが、その秀才学生は身体検査で不採用、 戦争中に死亡したことを聞き、他人の命をもらったような思いを持つ。また、同省では、車両修理工として勤務するも、作業中の事故で大やけどを負った。 「足を切断しなければ助からない」といわれたが、母親はどうしてもそれは忍びない、と退職させ、地元の獣医に懇願、その思いが通じ四年半をかけて治癒。 その獣医は治療代を一円も受け取らなかった。復職も果たし、母や医師の献身的な治療や看護によって命を与えられた、という感謝の念を強く持つに至る。

終戦後、もはや国に依存するのではなく、自らの考えと力で生きようと「人生八十年計画」を立て、子どものため、平和のために社会に役立つことを決意。 子ども会を設立。その後、給与の三分の一を子ども支援はじめ社会活動に充てる生活を続ける。原水爆禁止運動、公民館運営審議委員としての地域づくりなどの活動に従事する。 退職後、「ひかり幼児園」設立。「子どもたちのために戦争のない世界を作ろう」、とその敷地内には平和祈念の碑を建立。平和祈念集会は今も続けている。 さらに相模原市在住の私費留学生に年間六万円の奨学金を支給する相模原国際奨学基金を創設。二百七十四名の奨学生が巣立った。この資金は、駅頭に立っての廃品回収などで確保。 二年前、脳梗塞で倒れそれは断念したが、その後は、ぶどうの鉢植えを栽培・販売して資金に充てている。 八十歳を期に幼児園の閉園を決め、二〇〇六年、園地の一部、五百八十平方メートル(地価八千万円)の土地を子どもたちのための平和祈念公園として相模原市に寄付。 平和のため、次代を担う子どものために、自らの財と汗を使い、志と愛を貫いてきた生き様である。

個人の寄付活動[一般部門]

 馬渕 隆一さん

馬渕隆一さんは、一九三二年、香川県高松市に生まれる。実家はブリキ関係の工場を営んでいた。 父親は経営者だったが、仕事の進め方だけを番頭に話し、自らは野良仕事をし、収穫を従業員らに分け与えるという暮らし。 戦争が激しくなり食糧難時には会社の株を売却。その収入で田畑を購入し耕作、高校に進んだばかりの隆一氏も早朝から夜遅くまで働き手として借り出され、 結局高校を中退せざるを得なくなった。同氏は、このときを「仕事の中で最も過酷だった」と振り返るが、ものづくりの原点を教わった時期でもあった。

一九五四年、マブチモーター株式会社の前身である東京科学工業株式会社を、兄・馬渕健一氏とともに創立。 専務、社長を歴任し、二〇〇三年、会長に就任。一九九六年、同社のベトナム工場を設立した際、現地で従業員を採用したくても文字が読めない、計算ができない人が多いことを痛感。 また、子どもたちが生活のために勉学よりも仕事を優先せざるを得ない状況を知り、「日本は他のアジア諸国よりも、一足先に恵まれた生活をできるようになったのだから、 アジアの一員として、他の国を支援する義務がある」「どんな人にも、生まれてきてよかったと思える人生を歩ませたい」と、二〇〇五年、自社株の持分約九十億円相当と、 現金十五億円を出捐、東南アジアや中国などから年間二十人程度の留学生を日本に招き、学費や生活費を支援するマブチ国際育英財団を創設。

マネーゲームに翻弄されがちな今日、自らの成功と財をもって若者の育成にかけるその生き様は、若者に夢と目標を与えるものとして、さらに、公を担う民間人の責務を体現するものである。

個人の寄付活動[青少年部門]

 沖縄市立宮里中学校

同校一年七組(比嘉司教諭、生徒数三十八名)では、総合学習の一環として、福祉・ボランティアをテーマに、空き缶/不用品/ベルマーク/募金等の「集める活動」に取り組んでいた。 「誰かのためになりたい」「貧しい人のために何かしたい」という生徒の意思に応え、担任教諭は、ボランティアの意味、目的を考えるための情報収集を促した。 生徒からの提案で、沖縄市で活動する国際協力の専門家、池間哲郎氏(特定非営利活動法人アジアチャイルドサポート 代表理事)の講演会を開催。貧しい国で暮らす子どもたちの現状を知り、 自分たちの生活との格差に大きなショックを受けた生徒たちは、こうした子どもたちや地域のために何かをしたいと、ショッピングセンターや街頭での募金活動を企画。ポスター作成、チラシ配布、事前のリハーサルなど 綿密な計画による実行結果、二日間で二十九万円を集めた。二〇〇六年六月、募金はミャンマーの集団井戸建設に活用され、そこには、「輝け未来、命の水」と彫ったプレートが掲げられた。 三十八名の生徒たちの、「人の役に立ちたい」という素直な思いを引き出し、それが確かな結実をもたらした。総合学習という機会を、「共に生きる」ことを学ぶ実践として生かしたことは、 教育の意味を捉えなおすうえでも多くの示唆を与えるものでもある。また、人間は本来、他社絵のいたわりの心を持っていることを、身をもって示してくれた。
沖縄市立宮里中学校
沖縄市立宮里中学校

個人の寄付活動[青少年部門]

 高知県須崎市立須崎中学校

高知県須崎市立須崎中学校は、1961年から修学旅行で長崎を訪れており、生徒が折った千羽鶴や寄せ書きとともに、募金を持参して長崎市に寄贈し、被爆者を慰問するのが恒例となっている。
 こうした寄付を始めたのは、被爆体験をつづった故・永井隆博士の「この子を残して」に感銘を受けた生徒がお小遣いを持ち寄り、お見舞いとして2万円を届けたのが始まりだった。 これ以後、40年以上にわたり、毎年募金を集め、長崎市(原爆被爆者福祉基金)や日赤長崎原爆病院、長崎平和推進協会などに寄付をしてきた。
 生徒による長年の活動は、地域に住む人の心を動かし、父母や卒業生、さらに須崎市内の事業所、官公庁、市内の三小学校にも波及するなど須崎市民全体の立つ堂へと広がっている。 また、1994年からは生徒会の提案で、地元スーパーや「道の駅」で生徒有志による街頭募金を開始し、一連の募金活動の総額は1,185万円にのぼる。
 また、修学旅行以外でも、須崎中学校内で記念パネル展を開催し、長崎市から被爆者語り部を招いたり、構内で「平和集会」を開催し、長崎を訪問した三年生から全校生徒に報告を行うなど、日常的にも平和教育の実践に努めている。
 こうした取り組みを通し、長崎の原爆を起点とした子どもたちの平和への願いが、学校の、町の文化として根付いている。戦後60年を迎え、その記憶が風化しつつある今日、次代を担う子どもたちが綿綿とつないできた平和への希求が、 寄付という形で結実し、さらに人の心を起こし続けている。

個人の寄付活動[青少年部門]

 愛知県高校生フェスティバル実行委員会

愛知県高校生フェスティバル実行委員会は、愛知県下高校生有志で構成され、ボランティア活動や文化活動を行っている。 阪神大震災の折には現地救援活動に加え、親を亡くした中・高校生に奨学金を贈るための募金活動を開始し、これまでに四百二十三人、計二千四百九十九万円の奨学金を贈っている。 また、経済的理由で学ぶことを諦めざるを得ない私立高校生に奨学金を支給する「愛知私学奨学資金財団」が財政難に陥っていることを知り、一九九九年から、 「まだ見ぬ仲間を救おう!」というスローガンのもと、一億円を目標に募金活動を開始。毎月の街頭募金および学校行事などで、地道に寄付を呼びかけた。その姿は多くの高校生、 地域住民の共感を呼び、「一億円募金活動」の輪が広がり、二〇〇六年四月、ついに一億円を達成した。「愛知私学奨学資金財団」は一九七六年の創立以来、経済的理由で退学する生徒たちを 救おうと、月額一万円(年額十二万円)を無利子で貸与。これまでに奨学金を給付した千八百七十六人のうち、六百十三人が一億円募金によるもの、という。 同じ学生としての、やむにやまれぬ熱い思いが果たした募金は、若き学徒のすがすがしいメッセージとして、同世代の若者に希望と暖かい勇気を与えるものである。

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