<贈呈理由>
永瀬隆氏は、第二次大戦で陸軍通訳を志願し、1943年9月、泰緬鉄道
(たいめんてつどう)建設作戦要員として、
(現在のタイ国にある)カンチャナブリ憲兵分隊に出向勤務を命ぜられ、捕虜の思想動向などの情報収集、防諜任務に当たり、敗戦。戦後、連合軍命令で戦争墓地委員会の通訳となり、墓地捜索隊とともに文字どおり、ジャングルの草の根を分け、朽ち果てた十字架を目印に3週間にわたり捕虜の遺体探しに協力。この時目撃した悲惨な状況に、必ず巡礼に戻ろうと決意。また、日本兵が帰還船にて祖国へ出発の際、タイ国政府は、敗戦国日本に帰る兵士が満足な食料も口にすることが出来ないだろうと、13万人の兵士各人に、飯盒一杯の米と当時貴重品であった砂糖を寄贈してくれた。このご恩は決して忘れてはならぬ、いつか必ず恩返しをしたいと心に誓った。この、タイ国政府の温情が、永瀬氏のその後のフィランソロピー人生を決定づけるものとなった。
帰国後、岡山県倉敷市で青山英語学院を経営した。生徒数500名を超え、経営も安定してきた1968年、連合軍兵士の眠るカンチャナブリを訪れ、連合軍墓地の十字架に深く頭を垂れた。そのとき、それまでの心のわだかまりがすっと消え去ったという実感を得、その帰途、日本大使館に立ち寄り、タイ人留学生2名の受け入れを約束。氏の「飯盒一杯のお米」への恩返しが始まった。その後20年間、約30名の留学生の世話を続け、1986年、連合軍兵士のためにクワイ河平和寺院を建立、同12月には、貧しい家庭や少数民族の子どもたちへの援助活動を安定的に継続するため、クワイ河平和基金を設立し、小・中・高・看護学生に奨学金の授与を続けている。また、1997年より、クワイ河医療診断所を設立、カンチャナブリ県の過疎地域で巡回診療事業を実施。2000年には、高価な眼鏡が買えない同県の人々に、岡山・香川県内の企業や市民の協力で眼鏡を集め、視力測定、検診も行いながら、2,500名に寄贈した。この時、立派な看護婦になった奨学生がボランティアとして手伝いに来てくれ、永瀬氏を感激させた。
こうして、永瀬氏が撒いた種は国内外で広がり、平和の心、人を愛する心が育っていっている。本年(2000年)6月には、日本兵のために念仏堂「クンユワム星露院」を建立。同時に老人ホームも建設・寄贈した。永瀬氏のフィランソロピー総額は、35年間で約7,000万円に達する。
永瀬氏は、「死の鉄道建設」といわれた泰緬鉄道建設にまつわる悲惨な出来事を、通訳という微妙な立場に立たされながらつぶさに見てきた数少ない証人の一人であるが、犠牲者への消しがたい追悼の思い、タイ政府から受けた恩情への感謝が、氏の活動を支える原動力である。
永瀬氏のフィランソロピー活動は、まさに敵・味方を超え、人種を超えて深い人間愛(phil-anthropos)からわき出た発露であり、20世紀最後の年、新しい世紀を迎えるにあたり、普遍的な人間愛のあり方を私たち一人ひとりに示したものとして、2000年度の『第3回まちかどのフィランソロピスト賞』にふさわしいものである。