ホーム > フィランソロピー事業 > 顕彰 > まちかどのフィランソロピスト賞 受賞者一覧 > 2000年
2000年 第3回受賞者
まちかどのフィランソロピスト賞
永瀬 隆(ながせ たかし)氏 (本名:藤原 隆、倉敷市在住)
太平洋戦争時、タイ国で旧日本陸軍通訳として従事。帰国時タイ政府から支給された「飯盒1杯のお米」に感激。その恩に報いるため、1986年タイに「クワイ河平和基金」を設立し、小中学生・看護学生に奨学金を授与。また、連合軍兵士及び日本兵のための寺院建立、老人ホームの設立など、タイ国への寄付を続けている。著書に「クワイ河捕虜収容所(現代教養文庫)」「クワイ河捕虜墓地捜索行(同左)」等。(当日の書籍販売あり)。
永瀬隆氏は、1918年、岡山市生まれの82歳。
第二次世界大戦で、陸軍通訳(職名)を志願し、南方軍総司令部付を経て、タイ国駐屯軍司令部付となり、1943年9月、泰緬鉄道建設作戦要員として、カンチャナブリ憲兵分隊に出向勤務を命ぜられ、捕虜の思想動向などの情報収集、防諜任務に当たり、敗戦。
戦後、連合軍命令により、戦争墓地委員会の通訳となり、墓地捜索隊とともに文字どおり、ジャングルの草の根を分け、朽ち果てた十字架を目印に、3週間にわたり捕虜の遺体探しに協力した。この時目撃した犠牲者の悲惨な状況に、必ず巡礼に戻ろうと決意。また日本兵13万人が帰還船にて祖国日本へ出発する際、タイ国政府は、敗戦国日本に帰る兵士が満足な食料も口にすることが出来ないだろうと心配し、13万人の兵士各人に、飯盒1杯の米と、中盒には当時貴重品であった砂糖をお土産として寄贈してくれた。このご恩は決して忘れてはならぬ、いつか必ず恩返しをしたい、と心に誓った。この、タイ国政府の温情が、永瀬氏のその後のフィランソロピー人生を決定づけるものとなった。
帰国後、永瀬氏は、千葉県立佐原第二高校に勤務したが、体調すぐれず、帰郷し、岡山県倉敷市で私塾青山英語学院を経営した。生徒数も500名を超え、経営も安定してきた1968年、永瀬氏は連合軍兵士の眠るタイ中西部カンチャナブリを訪れ、連合軍墓地の十字架に深く頭を垂れた。そのとき、それまでの心のわだかまりがすっと消え去ったという実感を得、その帰途、日本大使館に立ち寄り、タイ人の留学生を二名受け入れることを約束、永瀬氏の「飯盒一杯のお米」への恩返しが始まったのである。
その後20年間、約30名の留学生の世話を続けてきた。そして、1986年2月20日永瀬さんの誕生日に、連合軍兵士の霊を慰める為クワイ河平和寺院を建立、12月には、貧しい家庭や少数民族の子どもたちへの援助活動を安定的に継続する為、クワイ河平和基金を設立した。
運営は、永瀬さんが面倒を見た留学生たちがタイに帰国し、一人前になって各方面で活躍しているので、彼らに任せることにした。小・中・高・看護学生に奨学金の授与を続けている。また、1997年より、クワイ河医療診断所を設立、カンチャナブリ県の過疎地域で巡回診療事業を実施。2000年には、高価な眼鏡が買えずにいる同県の貧しい人たちに、岡山・香川県内の企業や市民の協力で眼鏡を集め、視力を測ったり、検診も行いながら、2500名の住人に眼鏡を寄贈した。この時、奨学生が立派な看護婦になってボランティアとして手伝いに来てくれ、永瀬さんを感激させた。
こうして、永瀬氏が撒いた種は、国内外で広がり、永瀬氏の思いを受けて、平和の心、人を愛する心が育っていっている。本年6月には、日本兵の慰霊のために、念仏堂「クンユワム星露院」を建立。同時に老人ホームも建設・寄贈した。永瀬氏のフィランソロピー総額は、35年間で約七千万円に達する。
永瀬氏は、「死の鉄道建設」といわれた泰緬鉄道建設にまつわる悲惨な出来事を、通訳という微妙な立場に立たされながらつぶさに見てきた数少ない証人の一人であるが、犠牲者となった人々への消しがたい追悼の思い、タイ政府から受けた恩情への感謝が、永瀬氏の活動を支える原動力である。
永瀬氏のフィランソロピー活動は、まさに文字通り敵・味方を超え、人種を超えて深い人間愛(フィル・アントロポス)からわき出た発露であり、二十世紀最後の年、新しい世紀を迎えるにあたり、普遍的な人間愛のあり方を私たち一人ひとりに示したものとして、2000年の第3回「まちかどのフィランソロピスト賞」にふさわしいものである。
特別賞
白石 啓文(しらいし ひさふみ)氏(故人のため代理出席、横浜市)
株式会社東芝に勤務し、メロウルックの発明など蛍光灯の研究で業績。つつましい生活を送りながらも残した多額の遺産を、永年住み、愛した町の福祉のために全額寄付。
白石啓文氏は大正13年東京都赤坂区に生まれ、昭和21年から神奈川県横浜市南区に49年間住み続け、平成7年に永眠(享年71歳)。
大手電気メーカー東芝に技術者として勤務し、蛍光灯の発明考案に積極的に取り組んだ。紫外線の出ない蛍光ランプ『TOSHIBA 100V 17W メロウルック50HZ』などを始めとする、数多くの発明の功績により手に入った特許料などを長年貯蓄した遺産(約3億2千万円)を、親族が同氏の死後知り、「全額を社会公益のために」と歳末助け合いとのほか、同氏がこよなく愛した横浜市南区の社会福祉協議会等に寄付した。
生前の氏は幼いころから成績優秀・品行方正かつ母親思いの息子であり、いつも母親が喜んでくれるように仕えた。衣食住についてはとても質素で倹約家で、服は穴が開けばそのほころびを縫い、大切に使っていた。新調することはほとんどなく、親類から贈られた衣類や寝具も手をつけなかった。また、生涯独身であった白石氏を気遣い、近所の人々が食事のおかずなどを持ってきても「お返しができないので」と、丁重に断り、容易に受け取らなかったなど、真面目で頑固な一面を思わせるエピソードも。
そして自分の能力を磨きながら、その技術が社会のために役立つことを願い、いつも研究熱心に仕事に取り組んでいた。ところが、40歳から50歳のときにはスモン病にかかり、湘南病院に入院し、ここで以前から病気がちであった最愛の母と同じ病院のベッドで過ごすことになる。このとき、これまでの研究の集大成として、論文をまとめることを決意。病気による手足のしびれと闘いながらの作業は、およそ1年もの時間を要したが、この期を逃すと論文はできないという危機感があった。その結果、大阪大学から理学博士号を受ける。48歳の快挙であった。
寄付にあてた遺産は、こうした日々のなかで白石氏が長年かけて貯蓄したもので、3億円を超える。正式な遺言はなかったものの、常々「お世話になった南区のために役立つように」と話していた白石氏の遺志をうけ、親族が遺産の一切を寄付にあてた。(資料参照)
白石氏のフィランソロピーへの動機・思想は今となっては明らかにはできないが、親兄弟の間柄でさえ、遺産相続争いなど諸々のいさかいが絶えない昨今、ただ、故人の意志を尊重しようと、社会のために寄付を厭わない親族の姿は、社会に役立つために日々過ごしてきた生前の白石氏の面影さえ感じ取ることのできるものでもあり、それらを含めて特別賞にふさわしいと思われる。
寄付先一覧
- 平成 8年6月18日
神奈川県南区社会福祉協議会 310,634,319円 - 平成11年12月18日
日本ダルク本部 1,500,000円 - 平成11年12月18日
アパリ東京本部 1,500,000円 - 平成12年12月21日
NHK歳末助け合い 1,000,000円 - 平成11年12月21日
東京都北区社会福祉協議会 2,000,000円 - 平成11年12月24日
ラミ中学校分校 3,417,321円
日時 | 平成12年9月21日(木) 17:00〜19:00(開場16:00) |
---|---|
会場 | 学士会館3階 320会議室 (千代田区神田錦町3−28 TEL・03−3292−5931) |
参加費 | 無料 |
プログラム |
|